徳川将軍一覧 |
歴代 |
名前 |
在職期間 |
享年 |
1 |
家康 |
いえやす |
慶長8年 |
1603〜 |
慶長10年 |
75 |
2 |
秀忠 |
ひでただ |
慶長10年 |
1605〜 |
元和9年 |
54 |
3 |
家光 |
いえみつ |
元和9年 |
1623〜 |
慶安4年 |
48 |
4 |
家綱 |
いえつな |
慶安4年 |
1651〜 |
延宝8年 |
40 |
5 |
綱吉 |
つなよし |
延宝8年 |
1680〜 |
宝永6年 |
64 |
6 |
家宣 |
いえのぶ |
宝永6年 |
1709〜 |
正徳2年 |
51 |
7 |
家継 |
いえつぐ |
正徳3年 |
1713〜 |
享保元年 |
8 |
8 |
吉宗 |
よしむね |
享保元年 |
1716〜 |
延享2年 |
68 |
9 |
家重 |
いえしげ |
延享2年 |
1745〜 |
宝暦10年 |
51 |
10 |
家治 |
いえはる |
宝暦10年 |
1760〜 |
天明6年 |
50 |
11 |
家斉 |
いえなり |
天明7年 |
1787〜 |
天保8年 |
69 |
12 |
家慶 |
いえよし |
天保8年 |
1837〜 |
嘉永6年 |
61 |
13 |
家定 |
いえさだ |
嘉永6年 |
1853〜 |
安政5年 |
35 |
14 |
家茂 |
いえもち |
安政5年 |
1858〜 |
慶応2年 |
21 |
15 |
慶喜 |
よしのぶ |
慶応2年 |
1866〜 |
慶応3年 |
77 |
徳川のおはなし・・・、ちょいと時間のある方はどうぞ
江戸幕府は、徳川家康が創設した武家政権である。
徳川家が将軍を歴任したので徳川幕府ともいわれる。
江戸幕府は、慶長8年2月12日(1603年3月24日)に
徳川家康が征夷大将軍に任官されて始まる。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に
徳川慶喜が大政奉還を行った後、
慶応3年12月9日の王政復古の大号令において
徳川幕府、264年間の幕を閉じた。
江戸幕府は日本史上、3度目の幕府にして最後の武家政権である。
※8代将軍「徳川吉宗」
江戸幕府、最大の幕政改革を行い、「江戸幕府の中興の祖」ともいわれる。
江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、
中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。
幕藩体制は明治4年(1871年)の廃藩置県をもって終焉する。
江戸幕府の支配下、各藩大名に対して参勤交代を強いたり、
築城・治水工事を命じたりして、大きな財政負担を与えることで
弱体化させ江戸幕府に対して武力反抗できないようにする政策を執った。
政治機構内においては家康、秀忠、家光、綱吉、吉宗、家斉の治世は
将軍親政で政治が行なわれたが、それ以外の将軍は幕閣に政治を任せるか
前将軍である大御所に従う存在であったかのようにいわれるが、
歴代の徳川将軍は能力の優劣は あったとしても、
それぞれにおいてそれなりに政治に関与していた事実は確かであり、
将軍は完全な独裁者、幕閣の完全な傀儡という状態ではなく、
老中を中心とする幕閣による合議で決定された事案を
将軍が決裁するという体制を執った。
三つ葉葵
丸に三つ葉葵 |
|
|
|
丸に三つ葵
(徳川葵) |
13本芯の徳川葵
(江戸後期) |
会津三つ葵 |
「三つ葉葵」といえば「丸に三つ葉葵」の紋を指すことが多い。
葵紋はフタバアオイを図案化したもので、
フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。
3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。
はじめは、特別な紋ではなかったが徳川家が征夷大将軍となり
徳川幕府を開くにあたり、次第に他家の三つ葉葵に限らず
葵紋の使用がはばかられるようになり、
松平家へは遠慮させ、伊奈家には禁止させているが、
徳川家家臣である本多家や准家門の鳥取池田家のように
一部葵紋の使用を許されることもあった。
正式に制限されたのは、享保8年(1723年)のことである
天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い
桐紋を徳川家にも与えようとしたが、
徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。
徳川家、徳川御三家(尾張家、紀州家、水戸家)では、
同じような丸に三つ葉葵(徳川葵)を用いる。
徳川葵は、「丸」と「茎」とする部分が一体であるものとして区別。
御三家それぞれでは、葉の模様(芯)の数の違いなどがある。
同じ将軍家のものでも徳川三代までが一枚あたり33本で、
徐々に減っていき慶喜の時には13本になっている。
また、綱吉、吉宗は、「会津葵」に似た、河骨の葉の図案を用いている。
ほかに葉の裏を使ったもの(丸に三つ裏葵)などの多くの変種がある。
徳川御三家
徳川将軍家に次ぐ地位の次の3家のこと。
- 尾張徳川家(尾張家・尾張藩) - 始祖は徳川義直(徳川家康の9男)
- 紀州徳川家(紀州家・紀州藩) - 始祖は徳川頼宣(徳川家康の10男)
- 水戸徳川家(水戸家・水戸藩) - 始祖は徳川頼房(徳川家康の11男)
親藩(一門)のうち最高位にあり、
将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許される。
将軍家を補佐する役目にあるとも言われているが、
制度・役職として定められたものではない。
宗家の後嗣が絶えた時に備え、
家康が宗家存続のために遺したものであるとも言われる。
水戸家は頼房が駿河家断絶後の1636年(寛永13年)に徳川賜姓された家であり、
他の2家よりも官位・官職の点では下ではあるが、
朝廷に対して次期将軍家の奏聞をし、
また江戸常勤であることなどから五代綱吉のころから御三家と呼ばれる。
将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出すことになっており、
8代将軍吉宗から14代将軍家茂までは紀州家の血筋である。
御三家同士、特に尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って競争意識があり、
紀州家出身の将軍吉宗と尾張家当主徳川宗春の間には、
吉宗の毒殺疑惑があり確執があったとされている。
なお最後の15代将軍慶喜は水戸家出身だが、
御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した。
江戸初期には、徳川将軍家である、
徳川宗家と尾張徳川家と紀州徳川家を加えた三家を御三家と呼ぶ、
また尾張家、紀州家に駿河徳川家を指して御三家という場合もある。
水戸家は尾張・紀州と較べるとやや家格が劣ると見られていた。
また、将軍家(宗家)の分家としては、上記三家及び駿河徳川家以外にも、
3代将軍家光の子を分封した甲府徳川家、及び館林徳川家が、
石高・家格ともに匹敵する家として存在した。
しかし、館林徳川家、綱吉が5代将軍として徳川宗家に戻る、
また、甲府徳川家、綱豊(家宣)が6代将軍として徳川宗家に戻ったため、
これらの徳川家が消滅、尾張・紀州・水戸の三家を御三家と呼ぶことに・・・
|