秩父事件

調べてみたらこんな意味だった    Home
秩父事件
・概要
 秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、
 増税や借金苦に喘ぐ農民とともに
 「困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、
 1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。
 そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、
 租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を
 政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で
 代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。
 蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、
 高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。

 自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において
 決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、
 蜂起が開始された。
 早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した
(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)

 しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起と
 その規模を知った政府は、
 一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、
 最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、
 11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。

 一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、
 さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、
  その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。
 その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。
Wikipediaより抜粋

 いろいろな史書が出ているがおいらには難しすぎる・・・
 唯一知っているのは「草の乱」にエキストラで知合いが出ているという事だけ、
 会社を休んで、結構旨いロケ弁を食ってきたとか・・・(笑) 


・詳しくは 吉田町公式サイトより「秩父事件」の詳細を見てくんなぁ! 

 より詳しく→長野の歴史より長野の文化財(特集号)1884年の秩父事件

・ちょこっと雑学・1
 秩父地方は昔から養蚕業が盛んで、フランスとの結びつきが強く、
 秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立された。

・ちょこっと雑学・2
 10月の第2日曜日は吉田町で行われる「龍勢祭り」の日です、
 昔は10月10日の体育の日でしたが・・・
 椋神社の例大祭なんですが明治17年10月31日、
 秩父困民党の決起集会が行なわれた場所でもある。

 現在、椋神社「むくじんじゃ」と呼ばれているが元は
 「くらのみや」と呼ばれており
 「くらじんじゃ」が本来の呼称だそうです。
 
 打ち上げられたロケットがまるで龍の如き勢いであったことから、
 龍勢と呼ばれるようになった?
 この祭りで奉納する龍勢は各流派の手作りで作成される。
 通称農民ロケットとも呼ばれている。
 27の流派があり、毎年三十数本の龍勢を轟音とともに天高く打ち上げる祭りで
 上がった龍勢からパラシュートや紙飛行機状の物体を放出する物もある
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